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(旧 「防水屋台村」建設中)
橋本左内処刑  1859年 11月12日(旧暦神無月七日)
三条実萬と密談する橋本景岳(左内)  井上白楊 筆 安政五年二月九日の夜。三条邸にて。

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橋本左内(景岳)1834ー1859幕末の先覚。15歳で「啓発録」を著す。
これを英訳し世界各国で絶賛された紺野大介氏は雑誌「選択」への連載で左内に触れている。
大村益次郎、福沢諭吉などを輩出した「適塾」創始者・緒方洪庵が、居並ぶ英傑の中でも、橋本左内を「他日わが塾名を掲げん池中の蛤龍(こうろう)」と評し、別格の扱いをした。蛤龍(こうろう)とは、池の中に潜んでやがては龍となる機会じっと待っている大物ーという意味である。  勝海舟は「この世に怖い者を二人見た。一人は西郷隆盛、一人が横井小楠」。その西郷隆盛は「吾の才学器識、逆立ちしても勝てない男が二人いる。それは藤田東湖、一人は橋本左内」と言った。

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紺野大介英完訳「啓発録」より三条実萬への呈書控
安政五年(1852)二月から四月にかけて、公卿間を周旋して将軍継嗣・対米条約問題の解決に向けて奔走していた景岳は、「今天神」とその英明さを噂され、一橋派に好意的であた実萬に対面し説得にあたった。景岳の議論に感動した実萬は、その内容を書面にして提出するよう命じた。上はその書面の控え。
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島田墨仙筆 橋本左内先生

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