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(旧 「防水屋台村」建設中)
 田村 恭 早稲田大学名誉教授と防水とのかかわり。(写真など追加)
田村 恭 早稲田大学名誉教授と防水とのかかわり。

2016年9月14日に逝去した、早稲田大学名誉教授・田村 恭氏(享年92歳)。 日本建築学会誌2017年1月号に、早稲田大学・輿石直幸教授が追悼文を寄せている。

田村追悼文 見開きDSC00078

田村 恭氏は1925年8月2日東京生まれ。1948年早稲田大学建築学科卒。同大学院特別研究生として吉田享二教授の指導を受ける。1983年日本建築学会論文賞「建築材料としてのプラスチックスに関する研究」。

152009年田村研新年会
2009年田村研究室の新年会の写真(提供・輿石直之氏。2列目左から4人目)。
最前列右から4人目、ステッキを持つのが田村 恭氏。田村研の卒業生を中心に、卒業後も研究室と関わりの深いごく一部が集まった。鶴田裕氏、難波蓮太郎氏、十代田知三氏(十代田三郎氏の息子)はこの年は欠席。松本洋一氏、中山実氏、現清水建設の社長の顔も見える。


輿石教授の追悼文より以下一部紹介させていただく。

吉田先生は、その3年後、日本建築学会の会長任期を終えた直後に亡くなられました。『建築物の耐久性』という著書を出版され、摩耗、衝破、凍害、容積変化について、実例と実験によって、劣化現象の究明や耐久性向上につながる知見を多数発見されました。また、この当時から、施工と維持管理の重要性に着目していました。田村先生は、短い期間でしたが、このような視点での研究指導を受けられました。

その後は、十代田三郎教授から指導を受けています。十代田先生は、一貫して「木造建築の腐朽とその防止に関する研究」に取り組んで学位論文をまとめられ、また、実務を基盤とする一般構造(構法)を学問レベルにまで高められました。なおこの分野は、神山幸弘先生に引き継がれています。十代田先生の編著に建築材料一般、建築構法一般、建築施工一般の三部作がありますが、田村先生は目次の草案作りを任され、この経験を通じて、十代田先生が思い描く教育理念を学びました。

田村先生は、昭和33年に米国ミシガン大学に派遣され、「建築産業における生産性」について研究指導を受けました。帰国後は、建築作業の生産性向上を目指して多数の建築現場で作業測定をされ、標準作業時間の算定や作業改善に努力されてきました。また、科学的管理手法の導入による現場作業の合理化、工事計画および工事管理の体系化、建築施工の機械化・自動化などに関する研究に取り組まれました。当時の大学における施工教育は、もっぱら建築業で活躍する施工経験豊富な実務者に頼っていましたが、日本ではいち早く、建築学のカリキュラムに建築生産管理工学を導入いたしました。これによって本学の建築材料および施工分野に材料、構法および施工の3本柱が整いました。


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実は田村先生は防水とのかかわりはほとんど無いが田村氏が師事した吉田・十代田両氏は防水と浅からぬ因縁がある。


60年前の建築学会会長がこれほど防水を重視していたとは…。
吉田享二の防水談義

奧山」

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これは1957年昭和32年、奥山化工業の会社案内「奥山式総合防水層の栞」の第7ページ。
このページは情報量が多い。昭和31年奥山菊五郎の黄綬褒章。菊五郎と吉田享二教授、十代田三郎教授の合作によるキャッチフレーズ。十代田教授の防水コラム。そして次のページには、21代日本建築学会会長 吉田享二早稲田大学教授の、に対する次のようなメッセージが掲載されている。

吉田享二先生談
防水工事は如何なる建築に於いても最も重要視すべきである。而して材料と構造と相俟って完成し得るものである。自己取扱いの材料が建築の一部となって永く其の目的を達する迄、材料製造者及施工者は責任を持つ覚悟をして貰いたい。其為めには熟練者を採用して自己の監督できる法をとって社会を満足せしめてほしいと思う。材料と施工との分かち得ない責任のあるのは防水工事の如きものである。熟練せる監督と現場従業員の必要は無論として、材料選定に関しては次の如きものは実施に際して先ず注意すべき事であろう。
以下略。



吉田享二氏は明治20年(1887)に兵庫県但馬生まれ。明治45年(1912)東京帝国大学工学部建築学科卒業。同時に早稲田大学建築学科講師。助教授を経て大正5年(1916)教授。専門は「建築材料学」であったが、大正14年(1925)から「都市計画」の講義を担当するようになる。東大や京大などに先駆け、大正11年から早稲田では「都市計画」の講義が開設された。当初、内務省官僚の笠原敏郎が講義を担当していたが、翌年におこった関東大震災の後、笠原は復興局へ異動したため、吉田享二が受け継いだ。
建築家として代表的作品、「日本民藝館本館」(登録文化財/昭和11年[1936])、竣工東京工業試験所(1922)、小野田セメント本社(1917-26)、第一菅原ビル(1934)など。
吉田享二氏に関しては、鳥取環境大学浅川研究室のブログが詳しい。
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-962.html
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なぜ建築学会会長で建築材料学の大御所が防水工事にここまで肩入れしたか

「奥山-片山のルーフネット」座談会での古谷氏の発言を見てみよう。
(ルーフネット2010年6月10日 記事より一部転載)

古谷:前に僕の先輩で秋山という取締役がいた。あの方は新制高校と旧制高校の境目だから。今生きていれば82歳くらいかな。昭和25年か26年の卒業ですよ。早稲田の大学院を出ているんですよ。あの当時は珍しいですよ。
片山: その秋山さんは奥山さんにはどういうきっかけで?
古谷: 大学院までいかれたのに。就職がないご時世だった。
片山: 僕もお会いしたことがあるはず。 確か小柄な方で。
古谷: 私が早稲田で、十代田先生から「奥山へ行って来い」と言われたのと同じように、吉田先生から「奥山に行け」って言われたそうですよ。
編集長: 十代田先生の先生が吉田先生。吉田先生と奥山の関係があれば、十代田先生が古谷さんに「奥山へ行け」というのはわかります。でも、その前に吉田先生が秋山さんに「奥山へ行け」というからには、さらに以前から、吉田先生と奥山とは、かなり親密なつながりがあったということですね。
以下略。


吉田享二先生談(奧山化工業会社案内より)





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