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(旧 「防水屋台村」建設中)
RNY265  安藤邦廣氏にきく
屋根で傾奇く(かぶく)   茅葺き職人はアーティスト 
   だから彼らは元気なんだ。 
筑波大学名誉教授・安藤邦廣氏に聞く 

左 P2120416

右 P2120988


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ほんの百年ほど前まで「最も安価な屋根」が茅葺きであり、今では「最も高価な屋根」が茅葺きである。茅はススキやチガヤなどを指す言葉であるが、一般的にはススキ、茅、葦(アシ、ヨシ)稲ワラ、麦ワラ、笹など、身近な草を刈り、屋根に葺いたものを広く茅葺き屋根と言う。一方、用いる材料により茅葺き(かやぶき)藁葺き(わらぶき)あるいは草葺き(くさぶき)と呼んで区別する場合もある。

一番身近な草で葺くわけだから、ヤシが生い茂るアジアの南の国ではヤシの葉で屋根が葺かれ、日本でも茅や藁が手に入り難い山間部では木の皮や、板を割いた木端、時には笹で屋根を葺くことになる。
勝手に生えているものを刈って使うから基本はタダ。農村山村の普通の人の普通の住まいや物置小屋が手近な安価な材料で葺かれてきたのだから、これらの材料が手近でなくなってきて、金属(トタン)の板の方が安くなった時、それに置き換わるのも自然の流れというものだ。

今、多く茅葺き民家の屋根を金属が被っている。
茅葺きファンから見れば茅葺き屋根が金属葺きに変わるのは苦々しいことだ。しかしある茅葺き職人は、金属板で覆われた茅葺き屋根を「缶詰(カンヅメ)」と呼び、単純に否定するのではなく、「缶詰屋根は茅葺きという文化を伝えて行く上でとても大切」と新たな価値を見出し、肯定する。それはどういう意味なのか。2013年、初めて京都深山・京街道沿いに残る茅葺民家群を訪ねて、その印象を写真で紹介したのが、(一社)日本金属屋根協会の機関誌「施工と管理」2014年1号掲載の、「あの屋根この屋根」~茅葺屋根の缶詰はタイムカプセル?」だった。(これは同協会のHP 
http://www.kinzoku-yane.or.jp/feature/index.html  で見ることができるので、御参照下さい)

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その年参加した日本茅葺文化協会のフォーラムで、研究者と茅葺民家のオーナー、職人たちの熱気に圧倒されてしまった。なぜ茅葺き職人たちはこんなに元気なのだろう?老職人が尊敬され、若い人たちが各地の中堅リーダーへの弟子入りを希望するのはなぜ?

昨年2014年8月19日、民家研究、茅葺き屋根研究の第一人者で、日本茅葺き文化協会を主宰する、筑波大学安藤邦廣名誉教授を、つくば市北条の事務所に訪ね、その秘密を聞いた。


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二面 P2120940
2015.6.7広島茅葺フォーラム見学会で。  バスが到着したら、小走りで撮影ポイントに向かう安藤先生。首にはLズームの付いたキャノン5D2 がいつも掛かっている。その重さ約2キロ。先生より若干若い記者だが、この重さに辟易して2年前から小型軽量のマイクロフォーサーズ機に乗り換えた。「先生いつもそれを持っているんですか?」と聞くと「これで撮っておくと何にでも使える(高画質)からね」。と涼しい顔だ。
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ルーフネット :  トタンで覆われた美山の茅葺き屋根をしばらく見ているうちに、つくる側も、住み手もその建物を大事にしている、その愛情が表れていることを感じました。

安藤:そうだね、どんなものでも職人が丁寧に作ってくれたものは大事にしなくちゃ罰(バチ)が当たる、と思う。
職人は「物を、材料を大事に仕事しなきゃバチが当たる」といい、ユーザー住む人は、「職人さんがこれだけの仕事をしてくれたんだから、大事にしなきゃバチがあたる」と思う。バチあたりがバトンリレーされて、最後に壊すときも、「壊したらバチが当たる」といい、捨てる時も、「捨てたらバチが当たる」という。バチあたりの循環だね(笑い)。島国の中で、バチでつながっている。 「ものを大切にする心を乱す者はバチ当たり」なんだよ。

ルーフネット : 茅葺き屋根を覆う金属をライバルとして否定するのではなく、「缶詰という視点」で評価する茅葺き職人の強烈な自信・柔軟な感覚にショックを受けました。

安藤:「カンズメ」と塩澤君が5年ほど前に言った。
この言葉は、茅葺きの過渡的な形ととらえている。新しい視点、新しいスタイルの出現、意識革命だね。
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言い訳にならない理由が4つ5つ重なって、インタビューから1年がたってしまったが、やっと今回、その時のお話を紹介する。
(安藤邦廣氏インタビュー 2014.8.19日取材・北条にて)

(1)日本の茅葺のピークは昭和30年代


1980年代、日本の茅葺きは絶滅寸前だった

私が茅葺きの研究を初めたのは1980年代だから、もう30年以上前のことだ。
そのころの茅葺きは最悪の状況、どん底、と言っていいだろう。とにかく後継者がゼロだったんだから。だから研究した。「自分が今、研究しなかったら茅葺きは途絶える」と思った。
もし技術が途絶えても記録が残っていれば、記録に基づいて技術は再生する、「研究論文の対象」について言えば、今盛んな分野のものは手をつけなくてもいいんですよ。今無くなろうとしている、途絶えようとするものあるいは途絶えたもの、を掘り起こして、新しい芽を見つけることが、学術研究の大事な役割だと思うね。
分野によってはゼロから起こす研究もあるけれど、僕が取り組んでいるような分野では、「無くなりつつあるものの記録」という視点が大事だと思う。建築は科学というより技術と文化だから、人間の営みの中に手がかりがある。

「滅びるもの」というのはとても大事な研究対象であり、そこに研究の意義、我々研究者の存在意義がある。
当時、茅葺きはもちろん民家自体がすでに絶滅危惧種だったから、民家を研究した。 民家の中にこれからの我々の生活や、建築に役立つ知恵と日本人がこの日本の気候風土の中ではぐくんできた技術が、その中に眠ったまま忘れられようとしていたわけだ。
そういう民家を研究するうちに、茅葺きに行き着いた。知恵と気候風土に育まれ、そして忘れ去られようとしている技術の最たるものが茅葺きであることに気が付いたわけだ。民家の中でも最も危機的な物が茅葺き屋根だった。

*学位論文は1983年に「茅葺きの研究」でしたね。

そこで茅葺き屋根研究にどんどんのめり込んでいった。 研究というのは最も危機的な部分、必要に迫られている部分をターゲットにするものですからね。

研究費を獲得するにしても、研究の評価を得るにしても、周囲が必要性を感じているものだと話は早い。そして何より今研究しないと、茅葺きは人から忘れられると思った。世界から茅葺が消えると思った。まだその時点では、その研究に何の意味があるかはよく解らなかったけれど、茅葺をなくすことは、学術的に大きな損失だと思ったんですね。

まあとにかく1980年代は正にそんな時代、茅葺きが滅びる寸前の時代だった。
私は全力で記録し、聞き取りし、各地の茅葺きの技を調査して回った。
茅葺きの材料や技法に関して地域差は大きいです。東北と関東、関西と全く違う。沖縄は全然違うし、アイヌは全く別だからね。
私一人の手に負えることではなかったけれど、とにかくやれるだけのことをやれば、後に続く人は出てくるだろうと思った。そんな思いで10年やった。
その時期、私は60歳代70歳代のベテランの最後の茅葺き職人たちに話を聞くことができた。その人たちは戦後間もなく職に就いた人たちなんだ。その背景はこうだ。


戦後復興は農村から始まった

終戦後農村は、食糧増産政策のおかげで、景気が良かった。
戦後の復興期に一番景気が良かったのは農村だった。都市は荒廃して、多くの国民は農村に疎開していた。食料と燃料に恵まれた農村は豊かで、復興の波に最初に乗った。「大建設時代は農村から始まった」、と言える。農家は景気が良くて、農家はどんどん屋根にお金をかけた、当時は屋根といえば茅葺きだった。米を作ればどんどん売れる、高く売れて、経済的に豊かだった。農村に金が集まると農家は、その金でどんどん家を立派にしていった。昭和30年代もまだそんな時代ですよ。茅葺き屋根もどんどん葺き替えられていた。ただこの時の茅葺きといってもそれは茅ではなくて小麦藁だった。

当時は食糧増産で必ず二毛作をしていた、米を作った裏作で小麦を作った。関東あたりまではね。関東周辺茨城、栃木も群馬も、はみんな屋根は藁葺きだった。だから藁葺きといった方がいいくらいだ。茅なんてない、従来萱場だった山や野原はどんどん田畑になる、山だって段々畑にしていったくらいだから、茅場にしておくような土地はない、茅場になるような場所はみんな田畑だ、イモも作ったしね。


茅葺きのピークは昭和30年代


だから昭和30年代といういのは、農地が最大に拡大した時代なのです。
この時代に茅葺きの個数は日本の歴史上で最大になったのではないか、江戸時代、明治時代に茅葺きがありましたというが、数において、この戦後30年代あたりが最大の戸数だったのではと思っている。母屋だけじゃなくて、倉庫や小屋を作る。それを茅で葺くから、すごい量になる。だから「日本の茅葺きのピークはいつですか?」という質問があれば、それは昭和30年代ということになる。

*膨大な茅葺き需要に対して、茅はない。有るのは大量の稲ワラと麦ワラというわけですね。だから稲・麦ワラで葺いたんですね。

いや、茅のもうひとつの大きな用途は牛馬の飼料だ。それから稲ワラなんて脆弱だから、2~3年で腐ってしまう。だから大事な部分には使えない。せいぜい厚みを出すために、軒つけの下葺きに使ったくらいだ。
でも小麦藁なら10年もつ、中空でシャキッとしている、撥水性もいい。その点では茅と同じだ。
ヨシ、葦は専用の育成場所がいるし、茅にしても当時はそれが生える里山の草原も不足、雑木林では燃料(薪炭)を取っていた。田畑をどんどん増やしていたから、草原・茅場は縮小した時代。とった茅の一番大事な用途は牛馬の飼料だから、屋根に葺く余裕はなかったと思う。だから麦わらと稲わらを使った屋根が30年代にはものすごく増えたと思う。

そういう中で何が起こったかというと、茅葺きという作業の急増です、
ススキ(茅)だったら30年は持つ。稲わらは問題外として麦でも3分の一の10年しか持たない。でも現実には麦しか使えないのだから葺き替え頻度が増える、仕事が増える。長持ちする材料だったら、例えば、瓦や銅板なら100年もつとしたら、麦わら葺きは10倍の仕事量があるわけだ。
材料のワラは農家だからタダみたいなもので、ワラの循環的利用が実現する。ワラは最後には肥料になるんだけど、その前に、肥料になる前に屋根に葺くわけだ。
こんな状況だったから職人さんが猛烈に増えた、茅葺き職人が最も多く存在したのは30年代だと思う。

だから調査を始めたころ80歳くらいの老人に聞くと、どんな村には必ず3人や4人の茅葺き職人は村にいたと話していた。当時農家で食っていけない家や二男三男坊は大工・左官・屋根屋になった。男の兄弟が何人かいれば、必ずその中に大工、左官、屋根屋がいたわけだ。

兄弟の中に屋根屋は一人いた、というくらいだ。その屋根屋が地元で葺き、出稼ぎにも出る。
戦後の復興期に、猛烈な建築ラッシュがあった。プレハブ住宅なんか出る前だったから、既存の茅葺き屋根住宅ストックを利用して直す、すなわち茅の葺き替えが頻繁に行われた。都市の住宅建設が始まるのはもっと後のことだ。
まず農家を復興、農業が最大の産業であった最後の時代。だったといえる。

当時、最も早く、安くできる家は茅葺きだった。もちろん藁葺きね。 それで雨露を防ぎ、米を作って、山で薪を拾って、炭を焼いて、都市に出荷していた。それで日本の復興が始まった。
とにかく燃料と食糧、がなければ動けない、町場なんて生きて行けない時代。何も売っていないんだから。都市近郊の農家から供給される米、炭が頼りだった。
それが地域でいうと京都だったら美山、福知山。東京だったら、千葉、茨城、栃木、群馬
と利根川水系あたりのことになる。(続く)

次号以下の予定
2 「皆が何に取り組み、どこに生産の重点を置いているか」それが屋根に現れる。
3.屋根屋はアーティスト
4.茅葺は究極の観光資源  五輪施設を茅葺で