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(旧 「防水屋台村」建設中)
近江神宮燃水祭はいつ始まったか?
 [近江神宮燃水祭はいつ始まったか/]
第1回「燃水祭」は 昭和48年8月15日斎行



近江神宮記念しP5040019

左から近江神宮40年史(昭和55年11月発刊)、50年史(平成2年11月)、70年史。中下は創建50周年にあたって、新人物往来社から発行された「近江神宮―天智天皇と大津京―」。この編纂には近江神宮の神職3名(権禰宜、近江神宮機関誌「志賀」編集責任者、近江神宮責任役員)が当たっているため、信頼できる資料と判断した。



 40周年史、50周年史を踏まえて平成22年11月7日に発行されたのが「近江神宮70年小史」。その中から燃水祭に関する記載を拾い出したのが以下である。

昭和47年(1972年)8月15日 「原油奉献祭」   
昭和48年8月15日 「燃水祭」。
昭和49年(1974年) 燃水祭。この年より7月7日斎行。午後魚介類安鎮祭
昭和51年3月12日 大協石油㈱より前田青邨「燃える水献上の図」大日本印刷による高精度複製画が奉献される。原画は昭和44年、大協石油創立30周年にあたり描いたもの。
昭和55年7月7日燃水祭、魚介類安鎮祭。避雷針完成奉告祭。
平成2年(1990年)7月1日 新潟県黒川村燃水祭参列。職員及び岡田晴夫世話人出向。この後毎年職員交代で出向参列。
同    5日 燃水祭。日本書紀奉唱 全石連会長浪田哲雄、原油献納・黒川村商工観光課長布川陽一。横井名誉宮司卜占。240名参列。



* 平成2年からは7月7日または7月5日で斎行されており、平成22年まで詳細に記載されている。
* 石油商業組合の本格的な奉仕が始まって以来、7月7日が土曜・日曜にあたる場合は7月5日に斎行されることになった。

そしてこの70年史の編集後記に次のように書かれている。

「30年前(昭和55年1980)、「40年小史」を刊行した。また50周年の折にはその後の10年間の分が当時の「志賀」に掲載された。本冊子(70年小史)はそれに続くものである。今回(*注:70年史のこと)も社務日誌の抄録を中心にした年表程度のものにならざるを得なかった。いくらかは他の資料にも当たって、40年祭までの分も増補訂正することができたところもあるが、社務日誌全体を点検し直すのも、時間が許さず、ごく粗雑な掲載のままとなった年代も多いのが残念である・・・・」



「近江神宮70年小史」はこれまで発刊された周年記念誌の中では最も詳細な年表だが、
記載のない年は、燃水祭が斎行されなかったわけではない。少なくとも昭和47年は「原油奉献祭」として、また昭和48年以降は「燃水祭」が毎年斎行されている。そして平成22年には、初めて「燃える土」関係者として、防水業界から日本防水の歴史研究会の参列、平成24年には燃える土関係者が日本書紀奉唱を奉仕、26年には、「燃える土」すなわちアスファルトのルーフイングメーカー団体会長による日本書紀奉唱が実現し、今日に至っている。

さて昭和46年以前の「原油奉献祭」斎行を調べるには社務日誌をたどるしかないのだが、現時点で確実に言えることは
「燃水祭」の初出は昭和48年8月15日。
7月7日斎行は昭和49年以降

ということである。

 鎮座50年を記念して平成2年11月7日に発刊された「月刊 志賀 」特別号「近江神宮 御鎮座 50周年式年大祭特集」に燃水祭の世話役を務め、当時オルシード㈱の社長であった岡田晴夫氏が「燃水祭と私」というタイトルで寄稿している。


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「神社シリーズ近江神宮」。「昭和53年の燃水祭」として写真が掲載されている。参列者はもちろん日本書紀を奉唱しているのであろう奉仕者もまだ平服である。


 岡田氏が初めて参列した昭和53年の燃水祭において「業界人は約10名参加」、と自ら書いている。昭和53年は、近江神宮からの案内を見た岡田氏が初めて参列した年であり、石油業界としては、それ以前から参列していたのである。
昭和51年から燃水祭に関わり、現在、燃水祭を取り仕切る大木権宮司によれば、この数年前から(おそらく燃水祭と名称が変わった昭和48年頃からであろう)石油関係者の名鑑を頼りに案内を出していたという。

昭和53年以前から、石油業界が参列していた証が、昭和51年の大協石油による前田青邨の「燃える水献上の図」(精密模写・写真)の奉献である。この原画は昭和44年、大協石油創立30周年にあたり前田青邨が描いたものだ。同じく大木権宮司によれば、近江神宮の近隣で商いを行っていた馬場石油の馬場友次社長が、大協石油のトップと親交が深く、青邨の画の存在を知った馬場氏が大協石油に対して「燃える水献上の図」の奉献を奨めたという。
 昭和51年に奉献されたということは、馬場氏は51年から遡って燃水祭に参列しており、かつ燃水祭に対して、大協石油に画の奉献を奨めるほどの賛同の意識を持っていた、ということだから。  
 またこの時、馬場氏とともに燃水祭を支えたのが、前田利文氏(協同石油社長)、山本浩一氏(東亜興産)、そして、現役最長老で現在燃水祭代表世話人を務めている芝野桂太郎氏(滋賀石油社長)といった人達である。

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前田青邨「燃える水献上の図」。原寸大の複製画は100号。54センチ×79センチの一部 紙本淡彩。中央前の甕が「燃える水」。後ろの荷が恐らく「燃える土」。

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 始めに述べたように、燃水祭の経緯を辿るうえで重要なのは、40年史、50年史、70年史、50周年で発刊された神社シリーズ「近江神宮」、そして月刊志賀である。これらの資料から、燃水祭に関する記載を拾い出してみた。
月刊「志賀」のうち燃水祭に関する記事は、近江神宮公式ホームページのトップにバナーがある「ルーフネット」から」見ることができる。


「近江神宮40年小史」 昭和55年11月1日「志賀」148号・号外として発刊。
昭和51年 3月12日 大協石油㈱より「燃える水献上の図」奉献さる。
昭和55年 7月7日 燃水祭、魚介類安鎮祭、避雷針完成報告祭
*「志賀」の発行人は近江神宮佐藤宇祐権宮司。


「近江神宮御鎮座50年式年大祭特集」平成2年11月7日 「志賀」特別号
年表に燃水祭の記載はないが、
昭和51年 3月12日 大協石油㈱より前田青邨「燃える水献上の図」奉献さる。
の記載のみあり。
P21-22 に「燃水祭と私」オルシード㈱代表取締役・岡田晴雄氏の記事あり。

編集後記に「志賀」に関する説明がある。以下関連部分のみ。

・・・昭和14年より奉賛会では会報「近江神宮」を発行し、昭和16年までに4号を数え、御造営の時の様子をほぼ掌握することができる。御創建の後、本部を近江神宮内に移した奉賛会は、昭和22年12月より会報「あふみ」(後「近江」と改名)を発行し、さらに昭和43年8月より、志賀発行所が設立され、月刊「志賀」誌が創刊され今日に至っている。


*この時の「志賀」編集責任者は吉田健一氏、編集人は岩崎謙治氏。

神社シリーズ「近江神宮」 人物往来社 平成3年4月20日発行
年表に
昭和49年(1974)7月7日 本年より、燃水祭をこの日とする。(前年まで8月15日)
昭和51年 3月12日 大協石油㈱より前田青邨「燃える水献上の図」奉献さる
とあり。
p110-113に
新潟県黒川村村長・伊藤孝二郎氏が「近江への油の道―燃ゆる水献上地より」寄稿。