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(旧 「防水屋台村」建設中)
yanenikki
これも「きゅーはく」の屋根です




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この弓なりの棟の下がエスカレーターのアプローチ。


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巨大な金属屋根に追われた「きゅーはく」九州国立博物館です。

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瓦と金属
RNy 防水歴史図書館資料第四号(2)
「BOUSUIデジタルアーカイブ」
防水歴史図書館資料第四号「設立30周年記念誌」~新しい歴史へのアプローチ~
東部アスファルト工事業協同組合
(2)

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我が国の防水の歴史を考察する上でどうしても欠かすことのできない文献が何冊かあります。
防水歴史図書館(BOUSUIデジタルアーカイブ)では、そんな文献を1冊ずつ選び、本が書かれた当時の様子、おもな内容、その本のどこが「すごい」のか、現在生きる人たちにとって、どんな価値があるのか、それぞれの資料を担当するキュレーターが、時には執筆関係者への取材を交えて分かりやすく解説する、というものです。

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4冊目の第2回 防水業界と住都公団の防水に関して、歴史的経緯を公団、東部アスの実働部隊の座談会記録から拾ってみましょう。

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岩﨑嵩理事長(当時):・・・・・・・我々東部アスがこれまで歩んできた道は、つまりアスファルト防水そのものの歴史だと理解している。・・・・・

丸山功副理事長(当時)・・・・・・・東部アスと住都公団とのかかわりは昭和40年の2月頃。公団から東部の前身である東京アスに、組合員の建設業登録の一覧表を提出するよう、要請があった。翌月、公団工事の指定を受け入れる準備があるか、と諮問があった。・・・・・

・・・アスファルト防水業界における2大メーカーである、田島ルーフィングと日新工業はそれぞれ事業協同組合を主宰しており、これに設立直後の東京アスが加わり、公団と協議の上、当初3協組受注で始まった。1年後、東部アスの1本指定となった。・・・


公団の防水工事は昭和43年から東部の一本指定に

司会・諏訪祐二・テツアドー出版編集長(当時) ・・・・ 1本指定になったのは何年頃ですか?

丸山 ・・・・・・昭和43年6月。それまでは3協組の合同委員会を結成して受注していた。・・・・・




飯島一夫 住宅・都市整備公団東京支社北多摩工事事務所長(当時)・・・・・
私が東部アスとかかわったのは昭和50年のはじめ。当時、設計にいた瀬川氏、伊豆氏という設計のチーフらの間で、「従前のコンクリート防水ではなく、何とか本防水ができないかと、防水メーカーと話し合った。・・・

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丸山 昭和30年代後半に、公団は新川団地で試験施工した。田島、日新、日瀝化学、防水業者、ここに三星産業も入っていた。・・・・・・
団地の屋根を半分ずつ各社それぞれの仕様・工法で施工した。その結果を公団が検討し、A型とB型という露出防水のスペックを確立した。・・・

矢内泰弘 住都公団東京支社保全第2課長(当時) ・・・当時の防水工法はモルタル防水で、そのあとにアスファルトが出てきた。この端境期に施主としての公団が雨漏りで大変苦労した。・・・。
・・・問題は屋根防水の材料、耐久性などの面で確たるものがなかった、防水工法として標準化されたものがなかった、技術情報が不足していた。この3点が問題で、業界としての体制固めが十分でなかった。・・・



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丸山 昭和20年から30年代の防水業界の事情、材料はメーカー任せ、施工は修練を積んだ職人任せが多かった。昭和30年代後半から、材料と施工を一本化した近代防水に代わっていった。・・・・

運営部会が中心となって施工体制を整備


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丸山 東部アスの実務は運営部会の幹事会が中心に行った。

岩﨑 昭和50年11月に公団の工事共通仕様書、暫定仕様書の標準施工法が出来上がった。・・・・ちょうどこのころ「防水業」が認定されて全防連」ができて、防水は一人前になった。・・・・

昭和40年から10年間は防水業界・東部アスの充実期


丸山 公団の要望に応えるため、内部体制の確立に苦労した。設立当初の31社からどんどん組合員が増えてくるが、施工レベルがわからない。公団の一本指定を受けても施工に対して不安が残った。講習会・説明会など啓蒙・技術指導を通じて、全組合員のレベル向上のため、相当のエネルギーを投入した。・・・・・

飯島 公団も30年の初期から10年間かかって標準仕様を作り上げた。 ゼネコンも10年間くらいで育ってきた。40年代半ばというのは公団事業量のピークだった。46年頃までは順調だったが、50年代初めになって「高・遠・狭」など問題が顕在化し、売れ残りも増えてきた。
本社でのそんな話し合いの中で10年保証問題も含めて、防水についても話題になった。・・・

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丸山 当時メーカー組合では、耐用年限と保証年限と、2通りのものが出ていた。仕様書の中で耐用年限が10年、15年、20年と出ていても実際に提出する保証書の年限は別。一般には耐用年限と保証年限がごっちゃになっていた時期がある。…そんな中で公団と東部アスの間で10年保証が確立された。そこから業界としても10年保証が徐々に定着してきた。・・・・・・・・・・・・・

・・・業界としては露出防水で10年の保証は難しいという拒否反応が強かった。しかし公団の要望は強く、最終的には公団から、構造物に対する民法上の規制が提示され、受け入れた、という経緯がある。


苦慮の末10年の防水保証を実施


飯島 建築全体の中では防水屋さんだけが、もう昭和40年のはじめに10年保証をきちんとしていた。私は立派だったと思っていた。

丸山 不安だった。 10年が定着すると、我々業者としては全部責任を取らないといけないわけだから、真剣に考えました。

矢内 公団側と組合側(施工者側)が双方の立場で困っていた。我々公団としても、これまでそういう取扱いはないし、中小企業協同組合法の約款に照らしても、中小企業の集団が過大な保証をしてはいけなかったわけだから。25年前(座談会の平成6年から遡って)としては画期的なことで、国際的にも誇示できる内容のものと評価している。

同時に公団側も仕様書で公団指定をしてゆくという、一歩踏み込んだとらえ方をしていた。双方が当時としては相当な英断をしたと思う。片方だけが肩に力が入っていても成り立たなかったし、双方がお互いの立場で、共通点を見い出し、「何とかしなきゃいかん」という気持ちと、特に業界側の防衛意識の高揚、防水業界のポリシーが相乗して10年保証が実現した。


「ふくれ」問題も慎重にクリア



司会 昭和50年代に入ると東部アスの組織も固まり、標準仕様もできている。問題もなく順調に進んできたのか。

丸山 そうはいかなかった。一番苦労したのが防水層の「ふくれ」と「水たまり」。また断熱防水に関しても試行錯誤があった。

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飯島 断熱材を防水の上にするのか、下にするのか。学識者、メーカー、施工団体らの協力を得て、調査・研究・実験を経て、外断熱という標準工法に至った。

・・・
矢内 公団管理部の保全部門の業務のイメージは、40年代までは雨漏り対策が主だった。50年代になるとそのイメージが消える。それは防水の材質、工法、施工技術情報をトータルにした標準設計が徐々に固まってきたのだろう。

(続く)