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(旧 「防水屋台村」建設中)
100年前のアスファルト防水層がまだ生きている?
R0010079全景

明治40年に施工されたのアスファルト防水層がまだ柔軟だった。 と言っても屋上ではなく地下室の壁。
東大赤門を入ってすぐ右手にまわると、写真のようなレンガの壁の一部が残っていて、案内版ががある。
このレンガの塊は、平成6年に東大総合研究資料館の増築に伴う発掘調査で発見された、旧前田侯爵邸(懐徳館)西洋館の基礎の一部だそうだ。塊の下にはなぜか、アスファルト防水層の欠片が落ちている。黒い防水層の部分はなぜか触りたくなる。その部分を突っつくからだろう。落ちているカケラを触ってみると弾力があり「まだ生きている」感じだ。

案内版によると、玄関脇の地下1階の小部屋部分にあたるらしい。最下の捨コンクリートの上に煉瓦がしっかりと積み上げられ、中ほどにアスファルトの防水層、床支持材の溝、切石の幅木が回っている。

この地区は旧加賀藩主前田侯爵家の敷地であった。当主前田利嗣は明治天皇行幸のために屋敷・庭園の整備を企画し、明治40年に西洋館が竣工した。ルネサンス風のデザインで地上2階、地下1階の大規模な建築であった。大正12年の関東大震災の後、建物と庭園は東京大学の迎賓施設「懐徳館」となったが、昭和20年3月10日の東京大空襲で炎上し、取り壊された。重厚で頑丈な基礎は、かつての優れた西洋館姿を偲ばせるわずかな遺物である。R0010071アス層アップ

R0010064アス層のみ

建設当時の様子について [東京大学本郷キャンパスの歴史と建築]の中で藤井恵介氏が次のように述べている。

 前田家が新たな邸宅の計画を開始したのは明治35年である。当主前田利嗣(第15代)はかねてから屋敷・庭園を改築整備して天皇の行幸を仰ぐ宿願をもっていたが、次代の利為がそれを実現しようとしたのである。建築・庭園の建設の次第は以下のとおり。明治36年1月地鎮祭および起工、同37、38年日露戦争のため約1年工事中断、同38年12月日本館竣工、同40年5月西洋館竣工。設計を担当した建築家は、西洋館が海軍技師の渡辺譲、日本館が同設計技師の北沢虎造であった。

 そもそも天皇の行幸が目的であったから、充実した建築が計画されたことは言うまでもない。正面車寄せは西に面し、ルネサンス式のデザインでまとめられていた。地下1階、地上2階、総面積約214坪で、建築費約19万5千円、装飾費は家具食器を含んで約11万円であった。全体の姿が優れていることは言うまでもないが、いかに内装・家具に力が注がれたか良くわかる。渡辺譲の設計した洋館のなかでも、最も上質な建築のひとつであり、都内各所に設けられた華族・貴族・ブルジョアジーの邸宅のなかでも第一級のものであった。


おまけ

「赤門」て何?



2010 年 睦月January 1月28日木曜日 
旧暦 12月14日 先勝

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