(旧 「防水屋台村」建設中)
RN296 booklet 1 筑波大学名誉教授・安藤邦廣氏に聞く
ルーフネットアーカイブシリーズ
ルーフネットネットの創刊は2010年4月24日、最新号は296号です。これまで評判の良かった記事、是非読んでほしい記事を、ルーフネットブックレットRNbooklet として再構成しました。


RN booklet 1
屋根で傾奇く(かぶく) 茅葺き職人はアーティスト。
だから彼らは元気なんだ。

筑波大学名誉教授・安藤邦廣氏に聞く

安藤邦廣

ほんの百年ほど前まで「最も安価な屋根」が茅葺きであり、今では「最も高価な屋根」が茅葺きである。茅はススキやチガヤなどを指す言葉であるが、一般的にはススキ、茅、葦(アシ、ヨシ)稲ワラ、麦ワラ、笹など、身近な草を刈り、屋根に葺いたものを広く茅葺き屋根と言う。一方、用いる材料により茅葺き(かやぶき)藁葺き(わらぶき)あるいは草葺き(くさぶき)と呼んで区別する場合もある。

一番身近な草で葺くわけだから、ヤシが生い茂るアジアの南の国ではヤシの葉で屋根が葺かれ、日本でも茅や藁が手に入り難い山間部では木の皮や、板を割いた木端、時には笹で屋根を葺くことになる。
勝手に生えているものを刈って使うから基本はタダ。農村山村の普通の人の普通の住まいや物置小屋が手近な安価な材料で葺かれてきたのだから、これらの材料が手近でなくなってきて、金属(トタン)の板の方が安くなった時、それに置き換わるのも自然の流れというものだ。今、多く茅葺き民家の屋根を金属が被っている。
茅葺きファンから見れば茅葺き屋根が金属葺きに変わるのは苦々しいことだ。しかしある茅葺き職人は、金属板で覆われた茅葺き屋根を「缶詰(カンヅメ)」と呼び、単純に否定するのではなく、「缶詰屋根は茅葺きという文化を伝えて行く上でとても大切」と新たな価値を見出し、肯定する。

それはどういう意味なのか。2013年、初めて京都深山・京街道沿いに残る茅葺民家群を訪ねて、その印象を写真で紹介したのが、(一社)日本金属屋根協会の機関誌「施工と管理」2014年1号掲載の、「あの屋根この屋根」~茅葺屋根の缶詰はタイムカプセル?」だった。(これは同協会のホームページ http://www.kinzoku-yane.or.jp/feature/index.htmlで、御参照下さい)



その年参加した日本茅葺文化協会のフォーラムで、研究者と茅葺民家のオーナー、職人たちの熱気に圧倒されてしまった。なぜ茅葺き職人たちはこんなに元気なのだろう?老職人が尊敬され、若い人たちが各地の中堅リーダーへの弟子入りを希望するのはなぜ?

安藤先生


昨年2014年8月19日、民家研究、茅葺き屋根研究の第一人者で、日本茅葺き文化協会を主宰する、筑波大学安藤邦廣名誉教授を、つくば市北条の事務所に訪ね、その秘密を聞いた。

http://www.roof-net.jp/index.php?cmd=read&page=%E5%AE%89%E8%97%A4%E9%82%A6%E5%BB%A3%E6%B0%8F%E3%81%AB%E3%81%8D%E3%81%8F&word=%E5%AE%89%E8%97%A4



安藤邦廣氏にきく目次

(1) 日本の茅葺のピークは昭和30年代 1980年代、日本の茅葺きは絶滅寸前だった。
戦後復興は農村から始まった
茅葺きのピークは昭和30年代
(2) 「皆が何に取り組み、どこに生産の重点を置いていたか」それが屋根に現れている。 茅葺きは農業の象徴。
今の茅葺き技術を言ってみれば「東の熊谷産業、西の鶴岡建設」
(3) 屋根屋はアーティスト 結局ね、今の茅葺屋さんはある種のアーティストなんだよ。
(4) 茅葺きは究極の観光資源 五輪施設を茅葺き屋根で 22条による差別をどう乗り越えるか?
あなたも茅葺きがお好きでしょ?
茅葺き地区は究極の観光地 
東京オリンピックの選手村に茅葺きで
観光の最大の価値は「尊敬」。尊敬できるから見に行く

*なぜ「燃水祭」が防水のお祭りで、天智天皇は「防水の祖神」なのか? 

RNP20120728
なぜ「燃水祭」が防水のお祭りで、天智天皇は「防水の祖神」なのか? 



防水の歴史を語る時、天然アスファルトに触れないわけにはいかない。石油・アスファルトの歴史を語る時、必ず出てくるのが「日本書紀には668年天智天皇即位の年に越の国から燃える水と燃える土が献上されたという記述がある」という表現である。
日本書紀
日本書紀(元治甲子補刻板:日本石油百年史より) 6行目二つ目の「又」の後に「越の国より、燃える土と燃える水とをたてまつる」とある。


それがこれ
「献燃土与燃水」

《天智天皇七年(六六八)七月》◆高麗従越之路遣使進調。風浪高。故不得帰。以栗前王拝筑紫率。』于時近江国講武。又多置牧而放馬。又越国献燃土与燃水。又於浜台之下諸魚覆水而至。又饗蝦夷。又命舍人等、為宴於所々。時人曰。天皇天命将及乎。



燃える土とは天然アスファルト。燃える水とは石油。石油に関する日本最古の記録が日本書紀だ。
日本書紀は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本における伝存する最古の正史で、舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。全三十巻。

この天智天皇を祀っているのが滋賀県大津市の近江神宮である。


燃土燃水献上図
日本書紀の「燃土燃水献上」シーンを我が国歴史画の父・小堀鞆音が大正3年に制作した「燃土燃水献上図」

前担いでいる甕にはいっているのが「燃える水=石油」。後ろのつづらの中は「燃える土」。
今年も「燃水祭」は盛大に執り行われた。石油業界では昭和53年より多くの人たちが参列している。新潟県黒川から運んだ燃える水を奉献し、日本書紀の該当部分を奉唱した。石油業界にとって天智天皇は「石油の祖神」であり、「燃水祭」は業界人として「石油の祖神」に感謝の祈りを捧げ、業界の繁栄を祈願する重要な行事となっている。


この時代、天然瀝青は接着材、防腐剤、防水材として使われていた。石油業界にとって天智天皇が石油の祖神であるなら、防水業界にとって(道路業界にとってもなのだが)燃える土を献上する天智天皇は「防水の祖神」である。近江神宮で行われる「(燃土)燃水祭」は「防水の祖神」に感謝の祈りを捧げ、業界の繁栄を祈願する重要な行事となるべきものではないか。これが表記テーマの答えである。そしてもう一つ大きな理由がある。
JR大津駅之大型ポスター
JR大津駅や近江神宮に貼られた「かるたの聖地」の大型ポスター。背景はもちろん近江神宮。

天智天皇は雨漏りの歌を詠み、それが百人一首の巻頭の歌(「秋の田の・・・」)となった。その縁で近江神宮は日本かるた協会が主催するかるた日本一を決める名人戦、クイーン戦の会場となっている。かるたは人気漫画となりアニメ化されテレビ放映されている。今や近江神宮は「かるたの聖地」 とされている。
秋の田の 石碑
近江神宮社務所横の歌碑。 


あきの田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ
解説:わが衣手(ころもで)は露にぬれつつ
秋の稲田の番をする小屋にいると、その屋根をふいた苫の目が粗いので、私の衣の袖は、その隙間から洩れ落ちる露で、いつも濡れている。

更に第3の理由と言うには無理があるが、強烈な縁がある。それが「漏水」

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日本で初めて天智天皇が時の制度を定め、水時計(漏刻ろうこく)を作らせたことにちなんで毎年、時の記念日の6月10日に、天智天皇の偉業をたたえ、全国の時計メーカーなどが参列して漏刻祭(ろうこくさい)が営まれる。6月10日の時の記念日は、天智10年4月25日に、日本で初の水時計が時を告げる(日本書紀)とあるのを、太陽暦に換算して大正9年に制定された。
我が国最古の時計が漏刻。升から漏れだす(溢れだす)水によって時を測る。時を測る水は「漏水」という。

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防水の歴史を探る*「ルーフネット」は日本の世界の防水に関する記録の初見を求めて日本書紀や聖書などを調べています。「日本の防水歴史研究会
2012黒川燃水際(ROOF-NET編)
RNP2012.0801

黒川燃水祭2012
開催 日時 平成24年7月2日(月) 10時30分~11時30分
会   場 シンクルトン記念公園(胎内市下館1622)
主   催 越の国黒川臭水遺跡保存会
事 務 局 胎内市黒川支所



「越の国より燃える水を献上する」という日本書紀の記録をもとに、毎年7月1日に、古式にのっとった伝統儀式「黒川燃水祭」が地元保存会と市により黒川石油公園で開催されている。保存会のメンバーは、かつて地元で採油に関わってきた人々が中心である。この黒川燃水祭は昭和58年から実施され、石油業界関係者、地域住民、市内小学校など毎年100名以上が参加し、「採油の儀」、「点火の儀」、「清砂の儀」など一連の伝統儀式を実施したあと古代装束をまとった保存会メンバーが街中で献上行列を行う。
行列は日本の歴史画の父・小堀ともとが、日本石油に依頼され描いた「燃土燃水献上図」を模したもの。ROOF-NET特集ページ「燃土燃水献上図を訪ねて」ほか小堀ともと関連記事参照ください。http://www.roof-net.jp/index.php?%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80%E3%81%A8%E7%80%9D%E9%9D%92%E3%80%8D)
また黒川で採油された燃える水(原油)は、7月7日に天智天皇が祀られている滋賀県の近江神宮の献上され、引き続き近江神宮で燃水祭が執り行われる。
ただしいずれも開催日が休日にあたる場合は変更され、今年は7月2日に黒川燃水祭、7月5日に近江神宮燃水祭が行われた。

黒川シンクルトン記念館1

黒川石油公園昭和60年に黒川石油公園が黒川油田跡地の森の中に整備された(面積 8,250 ㎡)。公園内には明治期にシンクルトンが指導して掘った堅井戸や、排水溝、それ以前の古い油坪などが保存され、黒川油田の繁栄を示す建造物として、石油掘削櫓を模したシンボルタワー、東屋、遊歩道なども設置され、採油用のカグマを栽培する展示畑もつくられた。公園内では現在も天然ガスがポコポコ吹き出る様子や、池や井戸から臭いを漂よわせながら湧き出る原油をみることができる。この黒川石油公園が整備された年、アラブ首長国連邦駐日大使が黒川石油公園を訪れ、またその3年後、黒川村長がアラブ首長国連邦に訪問し国際交流を深めている。平成4年には黒川の臭水(4,822㎡)が新潟県の天然記念物に指定され、さらに平成6年には考古学的な価値が認められ国の史跡に指定された。



黒川臭水坪2

臭水(くそうず)坪には油が浸み出し、真黒だ。シンクルトン記念館は平成8年に建設された。室内展示の概要は、古代~現代までの臭水と共に生きた人々の歴史を紹介。石油関係民具の実物展示、イラスト・写真・模型などにより展示、説明をしている。ハイビジョンシアターでは臭水と人との関りを学習体験できる。またこの地方独特の臭水の採油方法や、黒川燃水祭の様子も紹介している。入口ロビーにはアラブ首長国連邦児童絵画の作品も鑑賞できる。過去の歴史だけではなく、石油の現在、さらには未来の地球環境の認識も深めてもらうような展示がされている。



黒川カグマで採油3
天智天皇の時代と同じようにカグマで採油し、桶に絞り出す。
へ20120702桶5


黒川布川会長挨拶(4)
越の国黒川臭水1遺跡保存会布川陽一会長の挨拶

黒川油田の歴史:黒川油田は今から1300年以上前の688年、日本書紀に「越の国、燃える土(アスファルト)、燃える水(原油)とを献ず」と記され、ここ黒川をふくめた越の国から原油を天智天皇に献上したことを伝えている。黒川村の「黒川」という地名も、ここに原油(臭水:くそうず)が湧き、川を染めてていたことに由来するといわれている。<

a href="http://blog-imgs-53.fc2.com/r/o/o/roofnet/20120727233815689.jpg" target="_blank">黒川小学生質問(6
今年は地元3小学校から約100人が参加。「なぜ黒川から石油が出るんですか」との質問を受け、「背斜構造という独特の構造が石油絵をためる」と説明。

黒川山中行列7"

黒川の油田が歴史上に初めて登場するのは、1277年の古文書(高井道円譲状)や同時期の絵図(奥山荘浪月条近傍絵図)にある「くさうつ」「久佐宇津」にみられる地名である。
江戸時代になると黒川の臭水に関する記録が多くみられる。①元和7(1612)年村上藩主堀丹後守直寄の臭水寄進、②正徳3(1713)年『和漢三才図会』に於ける天智天皇7年燃える水献上地黒川の推定、③天明6(1786)年橘南谿『東遊記』に於ける越後七不思議の一つとして、④文化3(1806)年の『越後巡見記』によるカグマによる採油の記録、⑤文政2(1828)年の『産業事蹟』にみられる黒川臭水の江戸での販売などがあげられる。当時臭水坪は50ほどあり、臭水は灯明用のほか、農地の防虫、川舟の防水などに使われた。



黒川街中行列8

黒川油田の終焉により、一時は100箇所近くあった石油採油櫓や井戸が次々と解体された。平坦地は水田耕作などによりすべて撤去され、山間部の堅井戸などもすべて埋設される運命であった。しかし地域の人々がこの消滅する油田跡が歴史的遺産として大切なものであると認識し、また地域を潤し、黒川村を発展させたことに対する黒川油田への恩返しとして、保存し、後世に伝えていくこととなった。山間部の堅井戸跡や、油坪などは地権者と協議し、黒川村で管理し、整備することとなった。


黒川燃える土と燃える水9
前の甕に入っているのが燃える水(石油)、後ろのつづらの中に燃える土=アスファルトだ。

昭和12年の金塚友之丞氏の研究や、その後の地元地域の人々の研究や保存意欲により、昭和53年に臭水油坪が黒川村の文化財に指定された。昭和55年には黒川油田に関する資料を展示した黒川村郷土伝習館(現胎内市黒川郷土文化伝習館)が開館し、現在も油田の歴史を模型や写真で紹介している。

昭和58年には錦織平蔵氏により『燃える水 燃える土 献上地の研究』がまとめられた。その研究成果が滋賀県近江神宮にも認められ、この年近江神宮の「燃水祭(ねんすいさい)」に招待され参加し、以後黒川でも毎年7月「黒川燃水祭」を実施するようになる。このように地域で産業遺産の保存や伝承が進められていった。


honn[1]

日本書紀に記された天智天皇への献上地として有力候補は3か所あった。その中で黒川村が抜きんでたのは、この編者である錦織平蔵さんや、戦前の郷土史家金塚友之丞氏らの研究成果による。「燃ゆる水燃ゆる土献上地の研究」は昭和58年に錦織さんがまとめた、貴重な資料である

*写真解説は2007年、当時胎内市教育委員会主任だった伊東崇(いとう・たかし)さんが「新潟県石油産業遺産の活用を考える」シンポジウで胎内市代表で報告した資料を利用させていただいた。

写真は全て、日本防水の歴史研究会・森田喜晴撮影

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防水の歴史を探る*「ルーフネット」は日本の世界の防水に関する記録の初見を求めて日本書紀や聖書などを調べています。「日本の防水歴史研究会