(旧 「防水屋台村」建設中)
「黒川紀章と水コンペ」こぼれ話
「黒川紀章と水コンペ」こぼれ話
「JWHA日本防水の歴史研究会」ブースで知られざる資料展示

200黒川委員長選考中 立


 黒川紀章設計の「中銀カプセルタワービル」に対する若者やアーティストの関心が、高まっている。カプセル内での展示やアートイベントが活発だ。これに伴い、カプセルタワービルの保存・再生運動も本格化してきた。テレビ、雑誌、新聞の報道も目に付く。その理由としてはメタボリズムの実用建築としての意義や、ユニークな形状に加えて、黒川思想の再評価という側面もあるようだ。
200選考中 座

 黒川紀章の評伝は相変わらず人気があり、近年では2015年4月に草思社より発刊された曲沼美恵著「メディアモンスター・誰が黒川紀章を殺したか」(ブースで販売予定)が注目される。同書538頁には、水コンペの審査委員長当時の黒川と気鋭の建築家・隈研吾との確執も描かれている。
200黒川選定一人



 その舞台となった日新工業・水コンペで黒川は審査委員を16年間、うち2年は委員長を務めた。今回、中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト、銀座たてもの展実行委員会の要望を受け、水コンペ43年の歴史から、黒川紀章が審査委員長だった時期の審査の様子などを展示する。
600水コンペ 選考委員とテーマ


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防水の歴史を探る*「ルーフネット」は日本の世界の防水に関する記録の初見を求めて日本書紀や聖書などを調べています。「日本の防水歴史研究会
 田村 恭 早稲田大学名誉教授と防水とのかかわり。(写真など追加)
田村 恭 早稲田大学名誉教授と防水とのかかわり。

2016年9月14日に逝去した、早稲田大学名誉教授・田村 恭氏(享年92歳)。 日本建築学会誌2017年1月号に、早稲田大学・輿石直幸教授が追悼文を寄せている。

田村追悼文 見開きDSC00078

田村 恭氏は1925年8月2日東京生まれ。1948年早稲田大学建築学科卒。同大学院特別研究生として吉田享二教授の指導を受ける。1983年日本建築学会論文賞「建築材料としてのプラスチックスに関する研究」。

152009年田村研新年会
2009年田村研究室の新年会の写真(提供・輿石直之氏。2列目左から4人目)。
最前列右から4人目、ステッキを持つのが田村 恭氏。田村研の卒業生を中心に、卒業後も研究室と関わりの深いごく一部が集まった。鶴田裕氏、難波蓮太郎氏、十代田知三氏(十代田三郎氏の息子)はこの年は欠席。松本洋一氏、中山実氏、現清水建設の社長の顔も見える。


輿石教授の追悼文より以下一部紹介させていただく。

吉田先生は、その3年後、日本建築学会の会長任期を終えた直後に亡くなられました。『建築物の耐久性』という著書を出版され、摩耗、衝破、凍害、容積変化について、実例と実験によって、劣化現象の究明や耐久性向上につながる知見を多数発見されました。また、この当時から、施工と維持管理の重要性に着目していました。田村先生は、短い期間でしたが、このような視点での研究指導を受けられました。

その後は、十代田三郎教授から指導を受けています。十代田先生は、一貫して「木造建築の腐朽とその防止に関する研究」に取り組んで学位論文をまとめられ、また、実務を基盤とする一般構造(構法)を学問レベルにまで高められました。なおこの分野は、神山幸弘先生に引き継がれています。十代田先生の編著に建築材料一般、建築構法一般、建築施工一般の三部作がありますが、田村先生は目次の草案作りを任され、この経験を通じて、十代田先生が思い描く教育理念を学びました。

田村先生は、昭和33年に米国ミシガン大学に派遣され、「建築産業における生産性」について研究指導を受けました。帰国後は、建築作業の生産性向上を目指して多数の建築現場で作業測定をされ、標準作業時間の算定や作業改善に努力されてきました。また、科学的管理手法の導入による現場作業の合理化、工事計画および工事管理の体系化、建築施工の機械化・自動化などに関する研究に取り組まれました。当時の大学における施工教育は、もっぱら建築業で活躍する施工経験豊富な実務者に頼っていましたが、日本ではいち早く、建築学のカリキュラムに建築生産管理工学を導入いたしました。これによって本学の建築材料および施工分野に材料、構法および施工の3本柱が整いました。


――――――――――――――――――――――――――――
実は田村先生は防水とのかかわりはほとんど無いが田村氏が師事した吉田・十代田両氏は防水と浅からぬ因縁がある。


60年前の建築学会会長がこれほど防水を重視していたとは…。
吉田享二の防水談義

奧山」

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これは1957年昭和32年、奥山化工業の会社案内「奥山式総合防水層の栞」の第7ページ。
このページは情報量が多い。昭和31年奥山菊五郎の黄綬褒章。菊五郎と吉田享二教授、十代田三郎教授の合作によるキャッチフレーズ。十代田教授の防水コラム。そして次のページには、21代日本建築学会会長 吉田享二早稲田大学教授の、に対する次のようなメッセージが掲載されている。

吉田享二先生談
防水工事は如何なる建築に於いても最も重要視すべきである。而して材料と構造と相俟って完成し得るものである。自己取扱いの材料が建築の一部となって永く其の目的を達する迄、材料製造者及施工者は責任を持つ覚悟をして貰いたい。其為めには熟練者を採用して自己の監督できる法をとって社会を満足せしめてほしいと思う。材料と施工との分かち得ない責任のあるのは防水工事の如きものである。熟練せる監督と現場従業員の必要は無論として、材料選定に関しては次の如きものは実施に際して先ず注意すべき事であろう。
以下略。



吉田享二氏は明治20年(1887)に兵庫県但馬生まれ。明治45年(1912)東京帝国大学工学部建築学科卒業。同時に早稲田大学建築学科講師。助教授を経て大正5年(1916)教授。専門は「建築材料学」であったが、大正14年(1925)から「都市計画」の講義を担当するようになる。東大や京大などに先駆け、大正11年から早稲田では「都市計画」の講義が開設された。当初、内務省官僚の笠原敏郎が講義を担当していたが、翌年におこった関東大震災の後、笠原は復興局へ異動したため、吉田享二が受け継いだ。
建築家として代表的作品、「日本民藝館本館」(登録文化財/昭和11年[1936])、竣工東京工業試験所(1922)、小野田セメント本社(1917-26)、第一菅原ビル(1934)など。
吉田享二氏に関しては、鳥取環境大学浅川研究室のブログが詳しい。
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-962.html
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なぜ建築学会会長で建築材料学の大御所が防水工事にここまで肩入れしたか

「奥山-片山のルーフネット」座談会での古谷氏の発言を見てみよう。
(ルーフネット2010年6月10日 記事より一部転載)

古谷:前に僕の先輩で秋山という取締役がいた。あの方は新制高校と旧制高校の境目だから。今生きていれば82歳くらいかな。昭和25年か26年の卒業ですよ。早稲田の大学院を出ているんですよ。あの当時は珍しいですよ。
片山: その秋山さんは奥山さんにはどういうきっかけで?
古谷: 大学院までいかれたのに。就職がないご時世だった。
片山: 僕もお会いしたことがあるはず。 確か小柄な方で。
古谷: 私が早稲田で、十代田先生から「奥山へ行って来い」と言われたのと同じように、吉田先生から「奥山に行け」って言われたそうですよ。
編集長: 十代田先生の先生が吉田先生。吉田先生と奥山の関係があれば、十代田先生が古谷さんに「奥山へ行け」というのはわかります。でも、その前に吉田先生が秋山さんに「奥山へ行け」というからには、さらに以前から、吉田先生と奥山とは、かなり親密なつながりがあったということですね。
以下略。


吉田享二先生談(奧山化工業会社案内より)





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写真など追加 [田村 恭 早稲田大学名誉教授と防水とのかかわり]
2009年田村研究室の新年会の写真
152009年田村研新年会
2009年田村研究室の新年会の写真(提供・輿石直之氏。2列目左から4人目)。
最前列右から4人目、ステッキを持つのが田村 恭氏。田村研の卒業生を中心に、卒業後も研究室と関わりの深いごく一部が集まった。鶴田裕氏、難波蓮太郎氏、十代田知三氏(十代田三郎氏の息子)はこの年は欠席。松本洋一氏、中山実氏、現清水建設の社長の顔も見える。
新理事長の初仕事。
オードブルはカツオのたたき。
藁焼きに挑戦する内藤光雄新理事長

shinnrijichou かつお藁焼き  P9060476
9月6日、全アロン防水組合総会で新理事長に選ばれた内藤さん(丸星工業)。総会を終え、懇親会の直前、開催地・四国組合員のおもてなしの一つとして、カツオのタタキがふるまわれた。ここで新理事長の初仕事として、仕上げの藁焼きに挑戦。秒単位の勝負だが、見事に仕上がった。

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佐久間象山「 省諐録せいけんろく」  
紺野大介氏 幕末の思想家 英完訳3部作を完成

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佐久間 象山(さくま しょうざん1811~64)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。
門弟には吉田松陰をはじめ、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、坂本龍馬など。妻・順は勝海舟の妹。和歌や漢詩、書画に長じており、七絃琴や一絃琴も好んだ。

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創業支援推進機構理事長で,中国の清華大学・北京大学招聘教授の紺野大介氏は、幕末の思想家・佐久間象山の「省諐録せいけんろく」の英完訳を終え、このほど発刊した。
紺野さんは昭和60年、仕事の傍ら幕末維新史を研究し、まず橋本左内15歳時の著書「啓発録」を英訳に10年、その後吉田松陰30歳時の死刑前夜の著作「留魂録」英訳に5年(平成10年から15年)を費やした。今回、自身で、幕末三部作の最後の作品と位置づけて、佐久間象山の「省諐録」の英訳に7年をかけて完成させた。本作も前2作同様は「日本人のエートス*、倫理観、価値観、閉鎖性、美意識、潔さ、謙虚さなど高い次元で理解戴く一助になればありがたい」として国内外の個人や団体、大学図書館などに無償配布する予定。
前書き、目次、奥付を紹介する。
*エートス=ある民族や社会集団にゆきわたっている道徳的な慣習・雰囲気。反対語はパートス(広辞苑)

20%目次

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20著者紹介


奥付20

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平成28年度タイルフィックス工業会第7回総会

記念公演は輿石直幸早稲田大学教授の「環境時代の防水技術とアジアの連携」
総会後は来賓と和やかに懇談

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懇親会での記念撮影

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早稲田大学輿石直幸教授が「環境時代の防水技術とアジアの連携」のテーマで講演した。

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内藤多仲Jr.と鶴田明J.r。
右・内藤多四郎氏の父は東京タワ―を設計し「耐震構造の父」と称された 内藤多仲、左・鶴田裕氏の父は多仲の愛弟子で溶接の権威。鶴田明 氏は1987年 金属系構造物の発展に対する多年の貢献 で、日本建築学会賞を受賞している。
*内藤多仲と鶴田明両氏の浅からぬ因縁は、改めて鶴田裕さんに語っていただく予定。

㈱東邦建材(野口貴由社長)が製造する外壁タイル剥落防止システム「タイルフィックス工法」の施工団体であるタイルフィックス工業会(中坂勇二会長)は6月10日、東京・九段下のホテルグランドパレスで平成28年度総会を開催、①施工技術講習会の開催及び技術指導、②新技術・施工技術に関する研究開発、などからなる、事業計画を決定した。

講演後の懇親会では中坂会長挨拶に続いて、難波研究室難波蓮太郎代表、日本建築積算協会内藤多四郎顧問が祝辞を述べた。建築研究振興協会上村克郎顧問の発声で乾杯、会員・来賓が和やかに歓談した。

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「シーリング業界の父」 苅谷勝(マサル)氏のこと。
苅谷勝(マサル)氏 のこと
2015年7月8日逝去。 87歳。

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苅谷勝(かりやまさる)氏 
1927年11月、岐阜県各務原市生まれ。1950年㈱苅谷商会入社、1952年同社閉鎖に伴い中外商工㈱(本社・大阪市)入社、東京営業所に勤務。1956年退社、独立。昭和化工㈱本社内に事務所を置き、1957年東京都江東区森下にマサル工業㈱設立、代表取締役就任。1987年代表取締役会長。
1965年日本シーリング協会(現・日本シーリング材工業会)第3部会(施工部会)初代会長。
1993年 日本建築学会文化賞受賞



t小池迪夫先生、苅谷追悼文PC290006
「&シーラント」No.91 (2015.12.⒑)p34-36.

小池迪夫先生(東京工業大学名誉教授)、が日本シーリング材工業会機関誌「&シーラント」No.91 に寄せた追悼文が極めて重要だ。曰く、

建築のプレハブ化のキー材料として油性コーキング材の第1号を登場させ、その充填工事への志向を苅谷勝さんに助言した人がいた。」それが苅谷勝さんの従兄の苅谷廣見(故人)さんである。


先生が大学3年の時、1954年、渋谷・東横会館の増築工事に、日本で初めての油性コーキング材(アメリカから輸入されたバルカテックス)が使用された。建研の平賀部長が、当時昭和化工(現・昭和シェル石油)に在籍していた苅谷廣見さんにその国産化を勧めた。その後昭和石油に委託生産された油性コーキング材は国産第1号「エバーシール」として1955年販売が開始された。小池先生は苅谷廣見さんとの縁で、昭和化工に入社する。

詳細は& SEALANTで。

日本シーリング材工業会が機関誌「&シーラント」No.90とNo.91 で苅谷勝氏の追悼記事を掲載している。同工業会飯島委員長はその中で苅谷氏と油性コーキング材との出会いを次のように書き起こしている。

苅谷勝氏と油性コーキング材の出会いは、「(従兄にあたる)苅谷廣見氏が1951年頃に自宅の庭でドラム缶を焚いて油性コーキング材を試作していた」という西一氏(元㈱西ウォータープルーフィングの話と、当時廣見氏が設立した苅谷商会に勝氏が在籍していたことから、既にその頃、その存在を意識していたとしても不思議はない。文献にある1955年国産化の4年前、さらにABC商会が「バルカテックス」を輸入開始(1952年)したとされるより以前でもある。その後、勝氏は中外商工でバルカテックスなども含め各種防水材を取り扱いながら防水の知識を取得、廣見氏は昭和化工の役員となって油性コーキング材国産第一号「エバーシール」の開発に成功、販路確立に向けて施工者を募り、勝氏に声をかけ呼び寄せる。これが現在に至るシーリング業界歴史の起点となった。( 90号 p13-19 )


同じ号で、苅谷純氏の挨拶、宇山廣道・操上弘昌両氏の弔辞が掲載されている。

また、2006年6月に鹿島建設を定年退職し、技術顧問としてマサルに入社し、勝氏と個人的にも親交の深かった内藤龍夫氏が、
現在の我が国ではシーリング施工の規範となっている「三井霞が関ビル」のシーリング工事における業績や海外工事、職人育成への思いなどについて、詳細に語っている。

………計画時点の検討図面を見ると、目地充填剤として油性コーキングの名称が記載されていたが、二階所長(後に副社長になった二階盛氏)の強い意向により、アメリカで開発されている弾性シーリング材の採用が検討された。 
………
当時、マサルでも弾性シーリング材の利用を検討していることに着目し、弾性シーリング材の施工業者としてマサルと他1社を指名した。結果としてガラス目地に1成分形のシリコーン系シーリング材、版間目地には2成分形のポリサルファイド系シーリング材が採用されることになった。
………
当時を振り返って、苅谷さんは「鹿島の担当社員はバッカーがきちんと詰められるよう業者任せにせず、自ら目地の深さを一つ一つ測って、日報に記録するほど非常に高度な管理手法を取られていたよ」と、しばしば話されていた。
……… など (90号p16-19) 


* 防水業界の専門誌月刊「防水ジャーナル」では1984年1月号の写真ルポ「防水に生きる」に「おもしろ まじめ シールにんげん」として3ページにわたって紹介されている。



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